ゲームのガチ・エンジョイ論争のおはなし

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ガチ勢とエンジョイ勢の問題について

 

なにも難しいことじゃないと思うわけです。

つまらなそうにゲームをやってて強い奴と、楽しそうにゲームをやってて弱い奴。

どちらがいいか。

まずはこれで考えてみるといい。

楽しそうにゲームをやって強い奴、つまらなそうにゲームをやって弱い奴というのは

選択肢から外します。これだと二項対立にできませんからね。

 

で、元のはなし。どちらがいいか、というのは個人の主観です。

どちらのほうが、自分は楽しめるか。

どちらが正しいとか、偉いとかそういうことじゃありません。

正しさや偉さは、他者評価を含みます。つまり、他律的です。

そんな規範は内発的な動機にならないので、どこかで苦しくなるんですよ。

 

で、ゲームをやめてしまう。

「ガチで必死にやらなければならないんだ」

みたいなね。瞬発的な力は出ても、継続的な力になりにくかったりします。

山登りみたいに、ダラダラ、テクテクいくほうが、結果的に頂上が近いかもしれない。

それがゲームです。ダッシュするとたどり着けない可能性も出てくる。

 

できることなら、このときの「楽しめる」は自分も周囲も、であるのが望ましいですね。

でも、周囲もという考えが行きすぎて、「ガチの人間じゃないと許さない」という人に

認めてもらおうとすると、他律的になります。

彼らをよろこばせることは、他者を支配することによろこびを感じている人に

隷属するってことでもあります。

なんか難しいはなしになりだしましたが、

支配したいと思っている人もまた、他律的なんです。

自分の価値観が正しいことを支配している人間の数で確かめたいわけですよ。

 

だから、私もあなたも、ガチだろうがエンジョイだろうが、

他律的にゲームなんてしちゃダメなんです。

自律的、主体的に楽しんで、精一杯自分のなかだけを満たして、

それでもあふれだした楽しさやよろこびがあるなら、隣の人にわけあたえてください。

それで十分なのです。

 

みんながそう考えれば、ガチもエンジョイもないことになります。

自分が楽しめるように、自律的に遊ぶ。

他者をやっつけたり、否定することで他律的に自分の価値を確かめたりしなければ、

ガチの言葉の持つ冷酷無惨さも、エンジョイが持つ舐め腐った雰囲気もないことになります。

どちらも自分を自律的に楽しませようと、ガチでエンジョイしなければならないのですから。

 

今日のところはこんなもんでいかがでしょうか。