アーケードゲーム超初心者の心構えについて解説してみたい

2020年5月20日ゲームよもやま初心者, 心構えゲームよもやま, 心構え

目次

ある程度できるようになるとツマラナサが薄れる

まず知っておいて欲しいこと

アーケードゲームをはじめようと思っても、また、はじめてみても、操作がよくわからないうちに人やコンピューター(CPU)にボコボコにされておもしろくないという人は多いだろう。なにを隠そう自分もそうだったし、いまだにそうだ。知らないゲームをやると1人目の敵や最初のステージでやられて終わる。アーケードゲームは、とくに古いものは容赦がない。接待の精神がないんだ。でも、そこで諦めてしまってはもったいないよな。

 

例えば、自転車だ。誰もがはじめてだと自転車には乗れない。水泳だってそう。極端なはなし、歩くことだって練習したからできるようになったんだ。つまり、はじめは全然できっこない。そして、その間はどうしたって「とんでもなくつまんない」んだな。このことを忘れちゃいけない。できるようになるまではとんでもなくツマラナイ。これが大前提。はじめから超楽しいものっていうのは、たぶん人工的にそう仕向けられている。そういうものを楽しむのもいいんだけど、練習して、できるようになって、はじめて「ああ、これは楽しいぞ」と思えるモノだってあるんだということを経験しておくのも悪くない。

 

幼いころは強制されても、文句をいわずにやれるんだけど、大人になるとそうはいかない。子どもより大人のほうが辛抱ができなくなる。なんだか情けないから、どこかで辛抱してがんばってみることも必要かもしれない。ま、仕事だ家族だで疲弊し切っていて、そんな余計なことをがんばれないって事情もあるんだけどね。だから、これはまあ、仕方ない。

 

でも、ひとつ知っておいて欲しいのは、自転車でも水泳でも歩くのでも、ある程度までできるようになったから、普段の生活がゆたかになっているってこと。自転車レースや世界水泳やマラソン大会に出なくったっていい。はじめのうちに「ツマンネエ」と思いながらも仕方なくやったからこそ、いまできるようになっているんだ。できないままだと、やっぱりいろいろ不便だろうし、楽しむ手段が減っちまうのは間違いない。

 

ある程度まではどうしても努力が必要で、その間はツマンナイんだけれど、その範囲を超えると、ツマンナさが消える。なんで消えるかというと、それは「やらされている」状態ではなくなるからだ。

 

つまり、どこまでやればいいのかというと、やらされている、がんばっていると思わなくなるところまでやればいい、ということなんだな。ゲームをはじめるぞ! といっても、一体いつまで練習すればいいのか、どこまで練習すればいいのかわからないから尻込みしたり、途方もないようなものに見えて挫折してしまうんだけれども、実はちゃんと目安はある。目標はあるんだ。自分で「こういうことをやれば上手くいくんじゃないか?」と思いつけるくらいまでできるようになると、やらされている感覚やツマンナさが消えていくんだ。

 

これは割と簡単なことだよ。初心者は目の前の階段を1歩のぼるより先に、世界最強になりたいとか思っちゃうから折れるのであって、自分はまず自転車に乗るところからだなと思えば、勝手に高い目標を置いて、勝手に挫折することも減る。そもそも「世界一にならなくてはいけない」という前提を持ってしまうと、やらされている感じが出てきちゃう。途方もないものに強制されてやっているように思えて、楽しくなくなっちまうんだ。もちろん、世界一を目標にがんばれるんならいいんだけれど、すべての自転車乗りやランナーが金メダルを目指していないように、「こうでなければならない」なんて楽しみ方はないわけだ。無理をして、自分でやらされている感じになったらもったいない。せっかくの遊びなのに台無しになっちまう。これは本当に残念な傾向だと思う。

 

 

能力に応じた課題を持つのがベスト

フロー体験ってのがあるらしい。ミハイ・チクセントミハイって人がいってるらしいんだけど、深くは触れない。スピリチュアルと思われるのもナンだしな。知りたい人は調べてくれりゃあいい。

 

で、どういうことかというと、フローってのは夢中になってる状態ってことだ。当たり前だけど、夢中になっている間は「苦痛」も「退屈」もない。ただただなんとなく楽しく、興奮気味で、ひとつの課題に取り組んでいる状態が夢中なのだ。小さい子どもが積み木を一生懸命積んでる感じといったらわかるかもしれない。上手くいかなくても、何度でもやる。できるまで工夫してやる。そんな状態が人間の成長にはいいらしい。

 

というのも、自分の能力に対して課題が簡単すぎると「バカにしてんのか」と感じて退屈する。飽きてしまうんだ。一方で、難しすぎると恐怖や不安を感じる。そして投げやりになってしまう。人間って勝手だよな。

 

これは世界有数のトップクラスでも同じらしい。スーパープレイヤーが恐怖にかられて練習をし続け、精神的におかしくなってしまうなんて話は、将棋などの競技にはよくあるようだし、自分の能力に対してあまりに大きな敵(課題)を設定してしまうと、壊れちまうんだな。これは一番やっちゃいけないことだ。夢中になれる範囲の課題設定がミソなんだ。

 

この課題設定をするために、最初に話したある程度の努力が必要になる。ある程度努力すると、自分にできることと(今現在は)できないことがわかる。自分がわかるからこそ、課題設定ができる。課題が適切に設定できたら、あとは積み木を積む子どものように夢中になっていけるワケだ。

 

この課題設定や、その前段階の努力ができないからこそ強制的にやらされているだとか、退屈でやってられない、難しくて折れてしまうということが起きるんだ。どうすればいいかは結構明確になってきている。教育心理学だのなんだのの研究サマサマだよな。絶対の答えではないにせよ、それっぽい科学的な答えがあると、がんばれそうだもんな。オッサンが小さいころにこんな理論が一般的になってりゃ、さぞ楽だったろうになと思うよ。

 

もっとも、衰え出したオッサンになったいまでもやってるってことは、知らず知らずのうちに適切な課題を設定して夢中で遊べているということなんだろうけどね。

 

下手でも負けても自分の価値は下がらない

よく見る「折れちゃう人」の特徴として、「自分は偉い」と見せたくって仕方ない人ってのがあると思う。エラいんだぞ、と虚勢を張っちゃうわけだね。ある程度の意地は持つべきかもしれないけれど、虚勢まではいらないだろうし、なによりゲームが上手くたってエラくはないだろう。野球やサッカーが上手くても、エラくはない。スゴいけどね。

 

これって重要なことで、スゴいというのは「その分野のなかで目を見張る価値」があるってこと。一方で、エラいってことになると「人間的に本質的に優れている」ってことになる。自分は人間的にあなたよりも上等なんだよってはなしだな。当然、ケンカの元だよ。こんな勘違いをしちゃうと。人間的偉さなんてものがあるとしたら、総合的にみないといけない。ゲームの上手さ以外の要素もすべて突き合わせて優劣をつけることになる。でも、そんな手間かけらんないよな。だから、まともな大人は人間的優劣のはなしを安易にはしない。面倒このうえないからだ。

 

こういう価値観を抱いてしまうと、まわりは当然ながら本人も結果的に不幸だ。ゲームに限っていえば、ゲームが上手いばかりに大きな損失を抱え込むことになる。人に尊敬されなくなるからね。で、人が離れるから逆説的にドンドン人の称賛に飢えるし、認められないことにイラついて他人を傷つけ、ますます人が遠くへ行っちまう。

 

この価値観で世界ナンバーワンになれればいいんだけれど、世界一はひとりしかいないわけだから、大抵はどこかでへし折られる。すると、ゲームをやめちゃうんだな。「勝つ=人間的勝利」の世界の人だから、「負ける=人間的敗北」と思ってるからね。負けたら自分が価値のない人間だということになる。でも、人間そう簡単に自分が無価値だとは思えないから、なんだかんだと理由をつけてゲームをやめちゃうんだ。

 

いいかい? ゲームなんだよ? ゲームは楽しむためにやるものだ。少なくとも自分は、ゲームはみんなが楽しむために作られていると信じてる。ゲームの開発者がプレイヤー同士が傷つけあい、否定しあい、人間的優劣を付けあって欲しいと思って作っちゃいないと信じている。だから、ゲームで勝っているからエラいなんてはじめから思うべきじゃないんだ。ましてや、負けたら恥ずかしいとか、下手だと価値がないとか思う必要もない。上手い人を逆差別するようなことはあってはならないけれど、下手だから「恥ずかしい」「やるべきじゃない」なんてのは大間違いだ。ドンドンやるべきだ。

 

枯れ木も山のにぎわいという言葉がある。なにもないハゲ山よりも、枯れてしまった木でもあったほうが見栄えがするということだ。初心者でもなんでも、100円持って筐体に座ったら条件は同じだ。腕前は平等ではないけれど、それ以外は平等なんだ。当然人間的な価値も平等だ。知識や技能的に劣っているからといって、つまり競技者として未熟であったとしても、すぐさまそれが人間的に劣っていることにはならない。だから、ガンガン負けていい。負けても楽しんでいる奴が勝ちだ。

 

ちょっと思い出話をさせてもらうと、親がお金持ちの知り合いがいてね。ある程度の腕を持っているんだけれど、上級者には勝てない。でも、金では勝てる。ま、見ていてきもちのいいものではないんだけどさ。奴は上級者にボッコボコにされても楽しそうなんだ。で、当時クソガキの自分は「なんで負けて楽しいんだよ、金が余ってるからかよ」って感じの嫌味をいったワケ。そうしたら、対戦できるだけで楽しいっていうんだ。そして、上級者と思しきプレイヤーが退屈してるのが楽しいっていうんだよ。ヘタクソの相手をさせられてイラついてるのを見ているのが楽しいんだってさ。こちらは1万円でも2万円でも連戦できる。上手い奴に嫌がらせできるのがきもちいいって。

 

酷ェよな。金にものをいわせて、とんでもない奴だ。でも、こういうのでもいいと思う。楽しみかたの工夫がすごいと感心したもんね。ゲーセンだって潤うし、責められるいわれはないよ。下手だから人権なしなんてことはないんだ。どこにおもしろさを見出すかは工夫次第なんだね。ゲームと礼節の範囲を超えなきゃいいと思う。ま、自分はマネーパウワーを駆使して合法的に上手い奴に嫌がらせをしようとは思わないけどな!

 

 

やる気の置き場所に困ったときは

人間、やる気がなくなるときは当然にくる。さきほどの夢中になれる状態の外側には、不安と恐怖のゾーンと、簡単で退屈ゾーンがある。ここに入ってしまうとやる気がなくなってしまう。また、どんなに夢中になっていても、どうしても上手くいかない、上回れないという状況や相手もいるだろう。そんなとき、いわゆるスポーツのプロたちはどうやってきもちを繋いでいるかを知れば役に立つ。

 

彼らは所属している組織に価値を足すことに意義を見出しているらしい。たとえば、体操。鉄棒や吊り輪、鞍馬とかのアレだ。基本的に体操競技は個人種目だ。どんなにがんばったってスゴい奴がひとりいたら代表にはなれない。団体戦もあるけれど、それは団体でなければいけないというルールのせいであって、ナンバーワンは誰かはハッキリとしている。じゃあ、ナンバー2やそれ以下はやる気がなくなってしまうのかというと、そうじゃない。同じ強化チーム内で切磋琢磨するという所属感を持って練習に向き合うことで、ナンバーワンはさらに己の技術を磨き、ナンバー2以下もチーム強化に貢献しているという充実感や、ナンバーワンからのアドバイスを受けて成長していくわけだ。

 

自分は常々、アーケードゲームにもこういう場所がなければダメなんじゃないかと思っている。白黒つけるだけがすべてじゃないよ。チームなんだ。対戦格闘なら、想定外の動きをしてきたり、知らないキャラを使われたらあっけなく負けてしまうことがよくある。それを防ぐには、腕前的にはまだまだでも、チーム内に珍しいキャラを使う人がいてくれたほうが助かる。そういう感謝の言葉を述べられるような環境、腕前に関係なく貢献できる環境ってのがあると、上から下まで、みんなで成長していくことができると思う。

 

体操を例に挙げたけれど、柔道のような個人種目だけど対戦相手がいるものなんて顕著だ。スゴい奴がひとりだけいたって、強化は進まない。相手がいてはじめて成立するんだ。もし、初心者のみんなが上手くなったとしても、このことだけは忘れないで欲しい。相手がいることが最大の価値だ。人を増やすことに意味はあれ、減らして少数精鋭にすることに意味は薄い。何百万人も競技者がいるならいざしらず、1つのタイトルに1万人もいないような世界なら、人がいることが価値なんだ。

 

人がいる場所、集まれる場所の価値を感じて、そこに所属していることに満足や快適さを感じられるよう、常日頃から貢献していって欲しいと思う。一番わかりやすいのはゲーセンかな。開かれたゲーセンという空気ができれば、いまよりもう少し、プレイヤーも増えるだろうし、チームで強化しあえれば、すぐに上達できるようになる。そうなれば当然、やる気がなくなってしまう瞬間や時期も減るワケだ。

 

対戦相手を「敵」認定しないことだ

多様な価値観があると前置きした上でいっておきたい。

自分は、対戦相手のことを「相手」とは呼ぶけれど、敵とは思わない。だって、敵と認定した時点で、勝っても負けてもストレスにならないかい? 弱ければ「雑魚が!」と思うし、強ければ「コノヤロウ」でしょ。どっちにしたってしあわせにはなれない。そのうちどうにかしてそいつを視界から消してやろうとか、いわゆる「引退させよう」みたいなことになる人をたくさん見てきた。

 

不思議な人もいるもんだと思っていたけれど、メカニズムがわかって納得した。相手を敵だと思っているんだな。消さなければ自分の身が危ないと本気で思っているわけだ。そこまで明確でなくても、なんとなくそう認識しちゃってる。そりゃあ、ストレスだよ。楽しいわけがない。ゲームを楽しむのではなく、それ以外の部分に楽しみを見出しちゃってる。危険だよ。

 

自分は対戦相手がいてこそだと思うから、相手を敵とは思わない。気取ったいいかたで申し訳ないんだけど、尊敬しているというか、リスペクトっていうんでしょ? サッカー選手とかが「(相手チームを)リスペクトしている」みたいにいうじゃない。最近だとラグビーかな? ああいう心境。

 

もっと適切な表現を思いついたので追記すると、自分は相手に感謝しているんだ。一緒に遊んでくれてありがとう、と。だから「敵だ!」なんて思いようがないんだな。敵と思われることは多々あるだろうけれど……。

 

アーケードゲームは死ぬまで遊べるぞ

案外知られていないことをいっておきたい。自分はスト2というゲームに出会って、かれこれ30年になろうとしている。もちろん、何十年間も遊んでいない期間があるけれど、いまやり直しはじめてもやっぱり遊べる。まだまだ10年はどうあっても遊べると思う。都合40年も遊べてしまう。スト2だけでもそうなのに、世の中にはほかにもたくさんゲームがある。仮に君がいま10代で、世の中にあるアーケードゲームの中から100本選び、1年ずつ遊んだとしても、きっと寿命がきてしまう。

 

実は、もうすでに死ぬまでに遊び尽くせないほどゲームは出てるんだ。だから、レバーとボタンの操作に慣れれば、死ぬまで楽しめるってことだ。自転車や水泳、ランニングと一緒だな。ずっと楽しめる趣味なんだ。

 

そして、ずっと楽しむべき趣味だとも思う。反応速度が衰えて引退、とかいった、しのぎを削る世界だけじゃないよ。40代でもフットサルをしたり、60代でもバレーや草野球をしている大人がいるだろう。彼らは世界を目指してはいないけれど、とても楽しんでいる。アーケードゲームだって、そうなれるはずなんだ。わざわざ、精神的に折れにいく必要はない。ゆっくりでも、長く遊べる楽しみとして、盆栽や釣りの延長のようなポジションにおさまったっていいはずだ。

 

いまからはじめたって遅いなんてことはない。いまからはじめないと、むしろ損だ。気軽にずっと楽しめる趣味として、アーケードゲームは悪くないぞ。